金光秀和『技術の倫理への問い』感想

読んだ本
なぜ読んだか
夏休みの課題図書。放送大学の後期に受ける予定の「共生のための技術者倫理」の予習のつもりで読みはじめた。自分自身は技術者というわけではないが、技術者がきわめて重要な役割を担う業界に身をおいており、理解を一歩深めたくてこの科目を受けることにした経緯がある。
何が書いてあるか
目次
序章 技術の倫理という問い
第1章 技術者倫理の歴史的概観
第2章 専門職としての技術業と倫理綱領――専門職倫理としての技術者倫理の内実
第3章 技術者倫理と公衆に対する責任――専門職倫理としての技術者倫理の課題
第4章 設計としての倫理――技術者倫理の方法論の検討
第5章 技術的媒介と技術の倫理学――技術をめぐる新たな倫理学的考察
終章 「技術の倫理への問い」の進展に向けて――今後の展望
序章の「本書の構成」で示されるように、本書の前半(具体的には3章まで)部分は、技術者倫理の歴史的背景をたどりながら、その内実と課題を明確化していく。この過程で技術に関するより理論的な考察が必要であることが明らかとなり、後半部分で、キャロライン・ウィットベック氏の「行為者中心のアプローチ」および「倫理問題と設計問題のアナロジー」や、ピーター=ポール フェルベーク氏の「技術的媒介」について検討したうえで、新たな技術の倫理学への可能性について論じる。
感想
読んでいる間ずっと、生涯エンジニアだった父の言動が頭に浮かんでいた。長い出張から帰って家でリラックスして自分の仕事について話すときでも、安全に関わることになると子どもが驚くほどに大きな声で語るのが不思議だった。父には技術者倫理の精神が刻み込まれていたのだろう。
現代では技術業が社会に及ぼす影響は大きく、技術者は「公衆に対する安全、健康、福利を最優先」する倫理的責任を担っている。しかし筆者の金光氏が主張するように、生産の一部のみを担うのみの作り手が、顔の見えない使い手に対して十分な配慮を払うことは不可能であるし、使い手も複雑化しブラックボックス化している技術を社会生活に不可欠なものとして使わざるを得ない。技術者個人の意思決定に重点がおかれすぎている現在の技術者倫理の方法論には限界がある。
新たな技術の倫理学の可能性を考える上で、本書の第5章で取り上げられたピーター=ポール・フェルベークの「技術的媒介」という概念が興味深い。
技術的媒介には二つの観点がある。解釈学的観点と、実存的観点である。
解釈学的観点 | 実存的観点 | |
---|---|---|
媒介するもの | 人間の「知覚」と「解釈」を媒介する | 人間の「行為」と「実践」を媒介する |
媒介による現実の変換 | 増幅と縮減を伴う | 招きと抑制を伴う |
例 | 温度計を読み取ることにより、温度という観点から人間と現実との関係を確立する | スピードバンプ(減速を促す道路上の段差)「こちらに到達する前にスピードを落とせ」というスクリプトを持つ |
このように技術的人工物は、人間の「知覚」や「行為」を媒介することにより、現実世界における人間の道徳決定や生き方を形成することに関わっている。
ここから、技術的人工物のデザイナー(設計者)は、人間の経験や行為を媒介する人工物をデザイン(設計)することによって、道徳的決定や道徳的実践を形成することに関わっていると考える。すなわち、デザイナー(設計者)は「道徳性を物質化する」ことで「倫理を実践している」。
こう考えることによって、技術の倫理への問いが(技術者個人だけでなく)技術的人工物の道徳的次元まで拡張することができるようになる。設計段階で技術の媒介的役割を予測したり、評価したり、具体的な道徳化の方法なども紹介されている。
方法の一つに、バティア・フリードマン氏たちが開発したVSD(Value Sensitive Design) を取り上げているが、Cookieをセーブする前に同意を求めるWebブラウザ(Mozilla)のデザイン(設計)がの発表を紹介している。フェルベーク氏が展開している主張や議論が、自分たちが直面している現代の技術と道徳についての考えを新たな場所へと導くのではないかという期待があり、じかにこの本を読む必要があると考えた。